5/16放送の歴史秘話ヒストリアは足利一族の兄弟喧嘩の顛末が紹介されました

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今週の歴史秘話ヒストリアでは鎌倉時代の終わりから南北朝時代の初期にかけて活躍し有名な足利一族が起こした兄弟げんかについてのお話です。

観応の擾乱と呼ばれるその兄弟げんかの顛末。なぜ、彼らは戦い、そして散っていったのか。

擾乱とは入り乱れて騒ぐことを言うそうです。複雑に入り組んだ彼らの事情について、そしてその実像に迫った内容に目が離せません。

このサイトでは番組で紹介された観応の擾乱の結末と、尊氏、直義の人物像についてご紹介します。

入り乱れて騒ぐ。言葉通りの観応の擾乱だった?

足利尊氏と弟の直義、そして重臣の高師直。彼らは大変仲が良かったと言われています。

その3人が、激しい闘争へと進んでしまう物語は、悲しい終わりを迎えたと言われています。

それぞれに立場があり、各々にとっての最善を尽くした結果が、殺し合い、そして幕府の壊滅へとつながっていくのです。

おそらく、3人はこのような終わりを望んではないかったのではと言われています。

ちょっとした考えのズレが、やがて大きなものになり、そして誰一人引くことが出来ない、まさに[大いなる波]に飲まれて行ってしまったのです。

この戦いの勢いを止めることは誰にもできませんでした。

それでも願い、あきらめず、そして何かを変えられるのではともがきあがくその姿は、正に命を燃やすかの如く、儚く、また美しく感じることさえあります。

この戦いの結末は、戦争を望まなかった尊氏が生き残る結果となりました。

ですが生き残ったからこそ、兄弟を失った心境は計り知れないものとなったのでしょう。

この日本中を巻き込んだ事件が日本を変えていったと言われています。

武士を生業とする人が増え、後に500年も続く、所謂[武士の時代]が始まったのでした。

小さかったひずみが、後に大きな溝となってしまってからは誰にも埋めることはできません。

足利一家の兄弟げんかは観応の擾乱を起こし、歴史に大きな影響を与えていったのでした。

足利尊氏・直義・高師直とはどんな人物?

■主な登場人物

足利尊氏(あしかがたかうじ)と弟の足利直義(あしかがただよし)、そして高師直(こうのもろなお)は鎌倉時代後期から南北朝時代の武将です。

足利貞氏の二男として生まれた尊氏は室町幕府の初代征夷大将軍としても有名です。

足利尊氏には兄の高義がいましたが、若くして亡くなったため、尊氏が家督を継ぐことになったのです。(当時はまだ高氏)

元弘元年/元徳3年、後醍醐天皇は再び倒幕を企てた。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、下赤坂城の攻撃に参加する。

この時、父、貞氏の喪中だったために出兵を辞退したが認められなかった。それが原因で[太平記]では幕府に反感をもつようになったと記されている。

後に高氏は天皇方につくことになる。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から勲功と所領を与えられ、後に名を尊氏と改名する。

・観応の擾乱

新政権において、尊氏は直義に政務を任せ、自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。

権力の二元化は徐々に対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の二つの派閥を作っていきます。

尊氏は当初は中立の立場でいたが、直義が高師直を襲撃しようとしてその反撃にあい、逃げこんだ尊氏邸を高師直の兵らが包囲した。

結果、直義は出家し政務を退くことになるのです。

その後、尊氏、高師直らが直義の養子である直冬を打つために中国地方へ遠征。その留守に乗じて直義は京都を脱出しました。

南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、現在の兵庫県芦屋で尊氏方を破ります。

尊氏方の高師直兄弟とその一族は、その後直義派の上杉能憲に殺害されました。

その後尊氏の嫡男、義栓の補佐として政務に復帰した直義ですが、尊氏らとの仲は良くはなりませんでした。

尊氏親子は反直義勢の態勢を整え始めました。それを見た直義は京都を脱して、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。

後の戦いで尊氏に次々に敗れ、鎌倉で武装を解かれた直義は延福寺に幽閉され同年2月26日に急死したとされています。

観応の擾乱は直義の死によって終わりを告げたのでした。

しかし、直義派の抵抗はその後も直冬を盟主として数年続いたとされています。

直義が没した日は自身の宿敵ともなった高師直兄弟の一周忌にあたり、そして早世した実後の如意丸の一周忌の翌日でもあったそうです。

享年47歳でした。

太平記によると、この直義の急死は、尊氏による毒殺ではないかと記されており、その説は有名ではありますが、史実上には記録がないそうです。

■尊氏と直義

天下を巻き込む結果となった観応の擾乱。激しい戦いに互いに身を投じた尊氏と直義ですが、年子の兄弟ということもあり、もともとは大変仲が良かったそうです。

幕府滅亡後の鎌倉を預かっていた直義が中先代の乱で敗走したときは、後醍醐天皇の勅使を得ないまま東国に下り直義を助けました。

乱の平定後、鎌倉に留まる尊氏に警戒した反尊氏派の運動によって追討令がでた。尊氏は出家して恭順の意を示そうとするが、直義はそれを翻意させようとした。

その後軍勢を率いて西上した直義が敗北すると、これを救うべく尊氏も官軍に立ち向かいます。

このような事からも兄弟仲は大変良かったと言われています。

まとめ

いかがでしょうか。

歴史秘話ヒストリアは筆者の好きな番組で、いつも欠かさず見ていますが今回のお話は鎌倉時代を駆け抜けた名将、足利尊氏とその弟直義の仲たがいから始まったとされる観応の擾乱と、そしてその悲しい結末についての物語でした。

史実上には残っていない情報もあるなか、それでも尊氏と直義兄弟の仲の良さについては有名なところです。

きっかけは尊氏の優柔不断さともいわれているこの兄弟げんかは幾たびの戦いを得て、直義の死をもって終わりました。

学校の教科書では、鎌倉時代は結構大きく扱われることがある中、観応の擾乱についてはあまり記されてはいません。

筆者も番組を観て、登場人物や起こった戦、時代背景などを調べてみましたが、この戦の結末は大変悲しいものでした。

次の歴史秘話ヒストリアは五代友厚(ごだいともあつ)について紹介されます。最近朝ドラでも注目があった人物です。

次週も楽しみですね!

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