連続テレビ小説あさが来たでも登場した五代友厚の人物像はドラマのそれとは違った部分が多いとされていますが、実業家として成功し、多くの人に愛されていた五代友厚とはどんな人物なのでしょうか。
事業のため幅広く活動する彼の成功に欠かせない存在として有名なの後妻であった豊子(とよ)の存在ではないかと言われています。
五代は大変な世話焼きとしても知られていて、そんな彼を支えてきたご婦人の器量は計り知れないものだったのではないでしょうか。
番組では実業家として確かな結果を残し、現代の大阪につながる礎を築き上げた五代友厚について紹介されました。
幕末の薩摩藩には教科書にも載る、西郷隆盛や大久保利通と有名な藩士がいる中、彼ら以外にも偉業を成し遂げた一人の男がいます。
それが【五代友厚】です。連続テレビ小説のあさが来たで登場したことで認知度も上がったこの五代友厚とはどんな人物なのでしょうか。
ドラマでは役を演じたディーンフジオカの好印象もさることながら、スマートなイメージがもたれる人物として登場していたことから、今回の番組を観てその違いに驚いた人もいるのではないでしょうか。
語学が堪能で役人としても、そして実業家としても一流だった五代友厚は情にも厚く多くの人から慕われていました。
■五代の妻と子供
あさが来たの五代友厚はあさ以外の女性には興味がなく独身の設定で描かれていましたが、実際には妻や子供がいました。
また妻以外にも女性を持ったことも知られており、そのあたりは当時の政治家や財界人と同じだったのかもしれません。
五代は10人の子供を儲けており最初の子供は実際に籍には入っていない。
後の明治初めに菅野豊子と結婚したが、この女性との間には一人も子はできなかった。
戸籍上にある子供もそれ以外の子供も全て他の女性との間にでき引き取った子供たちである。
ある著書によれば五代の遊び人は相当のものだったと記されており、官界から離れた原因の一つがそれであったのではと言われている。
また、五代が外で儲けた男子は認知はされたが一人も籍には入れず庶子となったのだ。
こうした女性遍歴があるところは朝ドラでは描かれておらず、ドラマだけ観ていた人のイメージを覆すのではないでしょうか。
また、何人もの女性との関係があったにも関わらず、その子供をも引き取り育てあげた豊子の懐の大きさには感服するものがある。
実際、彼女は五代の秘書のような存在でもあり、自身の教養を身につけるべく努力を惜しまなかったそうだ。
五代は1885年に死去しました。彼の葬儀は大阪の中之島にある五代邸で行われたが、なんと一般人の参列が4800人も訪れたという。
地元の人たちに愛され、敬われてきた五代の人柄がここに証明されたのは言うまでもない。
葬儀のあと、馬車に乗せられ棺が天王寺の埋葬場まで運ばれる間も大勢の人に従われるように行列を作った。
列の先頭が埋葬場に到着してもその後にはまだ4キロほど先まで続いていたそうだ。
それは大阪の都市機能をも止めてしまうほどの盛大な葬儀だった。
五代は利益だけでなく、豊かな人間関係を作り上げることも大切にし、揉め事や争い、競うことだけではなく、しっかりと協力をしあって大阪の発展に力を入れていた。
そんな五代の思いは大阪の商人たちにも伝えわっていたのでしょう。
五代を見慣らい、商人たちも互いに磨きあうことで商いに活気が生まれて、それこそ現在の大阪に繋がったのではないでしょうか。
こうした五代の人間性が、最後の時を見送る民衆の大行列を作り華やかな葬儀が実現したのでしょう。
いかがでしょうか。
朝ドラの爽やかなイメージの五代とは違って、その女性遍歴だけで言えば少し落胆する部分もあるかもしれませんが、それは彼の人を惹きつける人間性が豊かであったことを証明しているのかもしれません。
事実、彼も事業で失敗することがあってもこうして大きな結果を残し、華々しい最期を迎えたのです。
明治時代の大阪が盛りたち、現代の大阪の礎にもなった彼の生涯は、五代さまと愛され慕われてきた彼だからこそ築き上げることが出来たのかもしれません。
多くの幕末維新の陰にかくれてあまり表立って登場しない五代ですが、この番組でその人物像をより深く世の中に伝えたのではないでしょうか。