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京都三大祭りとは?春の葵祭から夏の祇園祭、秋の時代祭の歴史と詳細をご紹介

京都は日本の古都として知られています。平安時代から続く色濃く残った王朝文化や、数多の神社やお寺とともに現在まで伝えられた祭りも多く残っています。

その中で、長い歴史のある春の葵祭と夏の祇園祭、そして京都の歴史を集約させた秋の時代祭を、ここでは京都の三大祭りとしてご紹介いたします。

またそのうちの一つ、祇園祭は八坂神社の祭礼で、大阪の天神祭・東京の神田祭とともに、日本三大祭のひとつです。
その歴史の長いこと、またその豪華さ、祭事が1ヶ月にわたる大規模なものであることでとても有名です。
およそ1100年前、神泉苑に日本全国の国の数の鉾66本を立て、祇園の神を祀り災厄の除去を祈る祇園御霊会を行ったのが始まりと伝えられています。

  

風雅な王朝行列が有名な葵祭

葵祭は京都三大祭のひとつで、大変優雅で古趣に富んだ祭として知られています。
古典行列は平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かいます。

■歴史

賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、5月15日に行われます。
古くは賀茂祭、または北の祭りとも言われ、平安中期の貴族の間では単に「祭り」と言えばこの葵祭のことをさすほど有名だったそうです。

この祭の特徴は、平安時代以降国家的な行事として行われてきたので、日本の祭のなかでも数少ない王朝風俗の伝統が残されています。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされています。
使用される葵はフタバアオイで、毎年両神社から御所に納められています。

祭の起源と沿革は、今から約1400年前の欽明天皇(在位539~571)の頃に、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので当時賀茂の大神の崇敬者であった、卜部伊吉若日子を勅使として4月の中酉の日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったと言われています。
また、819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行うという、国家的行事になりました。
なお、応仁の乱(1467-77)の後、1693年(元禄6)まで約200年の間、1871年(明治4)から1883年(明治16)まで、1943年(昭和18)から1952年(昭和27)まで、中断や行列の中止があったそうです。しかし王朝の伝統は忠実に守られて今に至ります。

■5月15日 行列のコースと時間

京都御所 出発(午前10時30分)堺町御門 → 丸太町通 → 河原町通 → 下鴨神社到着(11:40)
路頭の儀・出発(14:20)→下鴨本通 → 洛北高校前(14:40) → 北大路通 → 北大路橋(14:55) → 賀茂川堤 → 上賀茂神社到着(15:30)

※( )は行列通過予定時刻

日本三大祭のひとつでもある祇園祭

八坂神社の祭で、毎年7月1日(吉符入)から31日(疫神社夏越祭)まで、1ヶ月にわたっておこなわれます。

一般には、17日(前祭・山鉾巡行と神幸祭)と24日(後祭・山鉾巡行と還幸祭)その宵山が広く知られていますが、それ以外にも実に多彩な祭事がおこなわれます。
祭は、単に神社や氏子達だけのものでなく、現在では京都市全体の祭りとしてくりひろげられています。

祭のハイライトは17日と24日に行われる33基の山鉾巡行。「京都祇園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にされています。

なお、祇園祭山鉾巡行は、平成26年、7月17日の前祭巡行(23基の山鉾)と24日の後祭巡行(10基の山鉾)の2度の巡行が49年ぶりに復興しました。

■歴史

今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11年(869)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出ました。
これは、牛頭天王(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれています。)のたたりであるとされ、その機嫌をとるため神をまつり、祇園社(八坂神社の前身で、祭神は素盞鳴命)を信仰し、病魔退散を祈願したと言われています。
その方法は、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられています。
その後、祇園社の興隆とともに、”祇園御霊会”とよばれ、この名が略されて祇園会とよばれるようになりました。
最初は疫病流行の時だけ不定期に行われていましたが、円融天皇の天禄元年(970)からは、毎年6月14日に行われるようになります。
その間、保元、平治の乱に一時絶え、足利時代に再興、足利将軍、夫人らが観覧したことが記録にのこっています。

しかし、応仁、文明の乱に京都は焼野原と化して折角の祇園会の興隆に一頓挫をきたしましたが、すでに町衆の手に支配されていた祇園会に対する熱情は容易に屈せず、大乱の約30年程の後、明応9年(1500)6月には再び山鉾26基が巡行したと伝えられています。
これらが契機となり、山鉾は町衆によって創意が凝らされ、内容外観ともに豪華、絢爛なものになりました。

永正元年(1504)6月には後柏原天皇もこの祇園会を観覧しているが、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文2年(1533)一向一揆に際して室町幕府は神事停止を命じたが、”神事無之共、山鉾渡し度し”と申し出るほど町衆の山鉾存続への熱意が高まっていきました。
鉾が今のような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易がおこり、町衆階級が勃興して舶来のゴブラン織や西陣織などが競って用いられるようになってからです。

このようにこの祭は1000年の伝統を誇っており、再三の中断と再興を重ねて京都の歴史とともに歩んできました。

■7月17日 山鉾巡行・前祭巡行コースと時間

四条烏丸 (午前9時00分) →河原町四条(9:35) → 河原町御池 (10:20) → 新町御池(11:20)

※( )は山鉾巡行通過予定時刻

■7月24日 山鉾巡行・後祭巡行コースと時間

烏丸御池 (午前9時30分) →河原町御池(10:00) → 四条河原町(10:40) → 四条烏丸 (11:20)

※( )は山鉾巡行通過予定時刻

京に広がる時代絵巻の時代祭

時代祭は葵祭、祇園祭とともに京都三大祭の一つとして知られています。
国内はもとより海外からの参観者も多く、 沿道には豊かな国際色が見受けられます。
山国隊の奏る笛、太鼓の音色を先頭に約2,000名・約2キロにわたる行列は順次、平安京の造営された延暦時代に遡り、観る人の心に過ぎ去った京都の歴史をしのばせます。
この祭はいわば日本の歴史の縮図とも言えます。

■歴史

平安遷都から1,100年目を記念して明治28年に、桓武天皇を祭神として平安神宮が造営され、10月22日より10月24日にわたって紀念祭が盛大に挙行されました。

そのとき、平安神宮の大祭及び建造物・神苑保存のため、広く市民によって組織された平安講社(各学区ごとに編成される「組」を単位にして構成されている)によって紀念祭の終わった翌日の10月25日に、延暦から明治に至る千余年の文物風俗を模した行列でもって時代風俗行列が行われました。
その翌29年からは、毎年遷都の日にあたる10月22日に行われるようになり、今に至っています。

祭儀は10月15日の参役宜状授与祭、21日の前日祭、22日の神幸祭、行在所祭、還幸祭、23日の後日祭ですが、そのメイン・イベントはもちろん22日の時代風俗行列です。

当初の6行列が大正10年8行列、さらに昭和7年には10行列となって内容も充実しましたが、昭和19年から中止、同25年新たに時代婦人列を加えて再興されていっそう豪華な一大ぺージェントとなりました。

■10月22日 行列のコースと時間

京都御所建礼門前出発 (12:00) → 堺町御門 (12:15) → 烏丸丸太町 (12:30) → 烏丸御池 (12:50) → 河原町御池 (13:20) → 河原町三条 (13:30) → 三条大橋 (13:40) → 三条神宮道 (14:10) → 平安神宮 (14:30)

※( )は行列先頭通過予定時刻

まとめ

いかがでしたでしょうか。

全国の祭もそれぞれの地域ならではの壮大で優雅な祭が多いですが、その中でも京都の祭はかつてそこが都であったこともあり、祭そのものに時代を感じさせる趣向が観る者を古き過去の歴史にいざなうような行程になっています。
春から夏、そして秋に行われるこの京都の三大祭りは一度ご覧になることをおすすめします。その他にも観光地として有名な土地ですので祭を観るついでに旅行をされるのも良いですね。

また、当日のコースや時間は変更になる場合があります。直前に一度ご確認の上行かれますようご注意ください。

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